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(9)津久井あれこれ《4》養老静江さんの思い出(2003年3月27日発行の「デジタル零通信」に掲載)
 山本家の冠婚葬祭の集まりに、いつもひときは目を引く女性が来てくださっていて、子供心にも気にかかっていた。母に聞いたら、養老静江さんという女医さんで、津久井出身で、いまは鎌倉でお医者さんをしていて、うちとは遠い親戚、ということだった。


■かっこいい「おばあさん」

 私と静江さんとは五〇歳ぐらい年が離れているので、最初にお会いしたころでも年齢からすれば「おばあさん」だったはずだが、どうもそんな印象はない。美人で、知的で、きりっとしていて、どこかあか抜けた感じで、しゃきしゃきしていた。そういえば、両切りピースの吸い方もかっこよかった。

 もう三〇年くらい前のこと、たしか祖父母の法事の日だったと思う。いまはなくなってしまった山口屋での直会のときだった。まだ私が平凡社に入社して何年も経っていなかったころで、少し離れた席の静江さんに声をかけられた。

 「ちょっと、平凡社、いらっしゃい」と扇子で手招きされて、一枚の封筒を見せられた。平凡社の百科事典の編集部が出した封筒で、そこには住所と「養老孟子様」と宛名が書かれていた。「会社に行ったら、担当者に言っておきなさい。うちの息子は女の子でも聖人でもないんだからね」。こんな感じで、しかられてしまったのだが、なんか気風のいい芸者さんの啖呵みたいなところもあって、その歯切れのいい言い回しが、なんとも心地よく、快感を覚えたほどだった。


■孟司さんのことなど

 「養老孟子」は正しくは「養老孟司」のことである。解剖学が専門で、「唯脳論」を提唱したり、宗教や文学、最近は環境問題などにもひろく評論活動を行なっていて、いまや日本の思想・学問の世界にも大きな影響力をもっている「えらい」かたである。

 もっともそんな養老孟司さんでも、私の両親などにいわせれば、たんに静江さんところの「変わった」息子というだけだった。「変わった」という意味は、どうも孟司さんの昆虫採集問題をさしているようで、静江さんが、むかしから私の両親によくこぼしていた。孟司さんの虫好きは、『三人寄れば虫の知恵』(新潮文庫)などを読むとよくわかる。

 孟司さんのほかに、静江さんには、前のご主人とのあいだに二人の子供があった。長男の大塚譲次さんは、若き日の渋沢龍彦とも交流のあったかたで、全集(河出書房新社版、第8巻)の月報に、その思い出を語っている。そのころの鎌倉の静江さんの病院は、梁山泊のようなところだったようで、渋沢さんたちの文学者グループのたまり場でもあった。その縁もあってか、孟司さんも『ちくま日本文学全集・澁澤龍彦』に解説を書いている。また長女のエミさんは、理論経済学の富塚良三・元中央大学教授の奥さまで、たまたま富塚先生は私の親しい友人のゼミの指導教授だったこともあって、私自身もその著書にふれる機会があった。この長男・長女のお二人は津久井の中野小学校にも通っていたことがあるので、こちらに同級生もおられるよう。


■自由奔放な生き方

 静江さんは医者として、九五歳で亡くなる直前まで現役だった。そのこと自体もすごいことだし、いまの東京女子医大を卒業し、草創期の女医としての活躍ぶりも興味深いのだが、その真骨頂は、自由奔放ともいえる生き方である。家庭のある男性との結婚、そして別れ。そして一〇歳も年下の男性との再婚。このあたりのことは、彼女の自伝『紫のつゆ草――ある女医の年』(かまくら春秋社、一九九二年)に、瑞々しい筆致で描かれている。

 この本には、子供のころの回想として、次のような言葉も記されている。「私が死んだら、この空も水も人もない。私がいるから私には空も水も人もある。大切なのは、私なんだ。私の心なんだ。そうだ私の心のままに生きて行こう」(同書頁)。「なんて傲慢だったのでしょう」とはいいながらも、静江さんは、この言葉どおりの人生を生き抜いてしまったように思われるのだ。

 静江さんの生き方は、あの田嶋「先生」からも先輩として尊敬されていた。『田嶋陽子が人生の先達と考える女の大老境』(マガジンハウス、一九九七年)には、北野さきさん(ビートたけしの母)、北林谷栄さん(女優・演出家)、小西綾さん(女性運動家)らとともに、養老静江さんも取り上げられている。


■津久井への愛情

 養老静江さんは、明治三二年(一八九九)一一月一六日、中野の川坂で大塚家の三姉妹の長女として生まれた。その後(一九二〇年ごろ)、一家は同じ中野の奈良井に引越しているので、静江さんにとっての思い出の津久井は二ヵ所に分かれている。川坂の家は津久井湖に沈んでしまった(?)が、奈良井の家は、味噌の旭屋さん(いまの「中野コミュニティー広場」)の上のほうにあって、「湖底に沈んだ川坂よりも青春の思い出の多いところ」(同書頁)だったようだ。

 『紫のつゆ草』のなかで描写された故郷の懐かしい風景は、まさに津久井の「原風景」ともいうべき世界である。そのどれをとっても「桃源郷」のように美しく描かれるのは、静江さんの津久井に対する愛情がそれほどに深かったからだろう。そんなことを考えてみると、静江さんが山本家の冠婚葬祭に来てくださったのは、親戚づきあいというよりも、津久井が好きで、津久井に帰ってくるための口実だったのではないか、とも思えてくる。

 静江さんは一九九五年三月二二日、九五歳の天寿をまっとうされた。その一〇日前まで患者さんを診察していたという。

 ちなみに、わが津久井町出身者で、咢堂尾崎行雄は安政五年(一八五八)に生まれ、昭和二九年(一九五四)没、カント学者の天野貞祐は明治一七年(一八八四)に生まれ、昭和五五年(一九八〇)没、どちらも満九五歳で亡くなっている。わが津久井町が誇る「九五歳トリオ」といえようか。


■山本家に伝わる「養老伝説」

 静江さんの四十九日の法要と納骨は、その年の五月二日、中野の祥泉寺で行なわれた。

 これには私と弟の昇が地元の親戚として立ち会ったのだが、納骨のときの孟司さんがおもしろかった。「大塚・養老家」と記された墓の中に、静江さんの骨壺を持って入った孟司さんがしばらく出てこなかった。「ひとりでゆっくり供養されたんですか」とお聞きしたら、「イヤー、こういうところには珍しい虫が多いんです」。

 最後に、山本家に伝わる「養老伝説」をご紹介しておこう。孟司さんが東大で解剖を専攻していたころ、養老母子が、そろって我が家にいらしたときの話らしい。

 私の母「静江さんも、息子が東大を出て医者になったんだそうで、これでもう安心ですね」
 養老静江「医学部を出たからって、ちっとも役に立たないのよ」
 私の父「孟司も医者になったんだから、これからは静江さんの面倒をよくみるように」
 養老孟司「ダメなんです。私は死んだのしか扱ってないんです」
 父・母「……」

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