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(10)「三太物語」と津久井の原風景

(2003年4月7日、中野小学校HPに「投稿」した けど「拒否」された原稿)

以下は、2003年4月7日、中野小学校(坂本征夫校長)のホームページ内の「愛しき津久井」というページに、中野小学校OBとして「投稿」した原稿です。問題があるとして2ヵ所の削除を求められ、それを拒否したら「投稿」は没となりました。どうも世の中の常識は中野小学校の先生方には通じないようです。養老孟司さんがいっている「バカの壁」(新潮新書)なんだろうか。

 中野小学校のHPには載せていただけませんでしたが、やはり、私の母校である中野小学校の関係者をはじめ、できるだけ多くの方に読んでいただきたいと思い、この場で発表させていただくしだいです。インターネットを利用されていない方もおられると思いますので、プリントアウトしていただき、みなさまでご回覧いただければ、うれしいです。
■半世紀前の中野小学校

 このページの第1回め、安川源通さんの「里山・津久井の自然は…」を読んでいたら、少し別な観点からではありますが、私も同じような問題意識をもって考えていたことがありましたので、投稿させていただく次第です。

 私自身は、いま東京に住んでいますが、生まれ育ったのは中野の上町で、ちょうど半世紀前、この中野小学校に入学しました。

 このところ、津久井町の町史の編集にかかわっていますので、ときどき「警察前」のバス停を降りて、小学校の校庭を突っ切って役場に向かいます。残念ながら、校舎は全部新しくなってしまっていて、当時の面影はまったくありません。昔と同じなのは校門の下の大イチョウぐらいでしょうか。桜の木やブランコのあったあたりは、いまはプールです。校舎の前の藤棚は、当時もあったような気もしますが、まわりが変わりすぎていてよくわかりません。

 私の入学式の日は、桜が満開でした。1年生のときの担任は女の青木先生、春の遠足は青山水道で秋は峰の薬師、だったような記憶があります。学校に通うのに、なぜか表通りはとおらず、麦畑や桑畑のある裏道を歩いていました。図画の時間は、いつも講堂の裏から城山ばかりを描いていたような気がします。高学年になってからですが、プールがないので、下の相模川の「屏風岩」の下流あたりにロープを張って、プール代わりに泳いだこともありました。担任の板倉忠臣先生は、体育が専門だったはずなのに、カナヅチだったこともわかりました。

 遊びのほうは、野山をかけめぐっていました。夏になると、いつも相模川の「ラクダ岩」のあたりで泳いでいました。あとは、よくアユを釣っていました。ドブ釣り一筋で、毛ばりは、近所のアズマヤのおじいさんからもらった「お染め」1本でした。

 私の記憶は、安川さんが引用された養老静江さんの文章よりも、ちょうど半世紀あとの津久井の姿です。でも、あまり変わっていないようにも思えます。

 以下は、町の広報誌『つくい』2003年1月号の「つくい史訪ね歩き」に書いたことと同じような内容になってしまいますが、ご容赦ください。


■津久井の原風景

 昨年(2002年)3月、中野の文化福祉会館で〈津久井の古地図展〉と題した津久井町史編集委員会主催の展覧会が開かれました。私自身も関係者の一人ではあったのですが、津久井のことを考えるのに大変勉強になりました。

 例えば、展示された天保14年(1843)の「中野村絵図」を見ていると、中野で生まれ育った私にとっては、そこに描かれている世界のほとんどすべてを理解できました。いまはその跡かたもなくなってしまった畑のなかの道筋や相模川の川筋など、最初に述べたように、小学生のころの遊びまわった記憶の世界とあまり違っていないのです。川坂と不津倉があって、相模川が流れていたころの中野です。それは中野の、そして津久井の「原風景」ともいうべきものだと思います。

 津久井湖ができたのは1965年(工事の開始は1962年)、中野は、そこで大きく変わってしまいました。でも、変わったのは中野だけではありません。「高度経済成長期」と呼ばれるこの時期、日本中が変わってしまったのです。

 歴史学者の網野善彦さんは、20世紀後半の高度経済成長期にはじまる現代を、日本の社会の第2の大きな転換点としています。14、5世紀から続いていた社会のあり方や、生活形態そのものが、全体として根底から変わりつつある時代、という意味です。

 〈津久井の古地図展〉は、まさにそのことを実感させてくれたのです。半世紀前の私の記憶は、現在の中野の姿よりも、江戸時代の古地図の世界のほうが身近に感じられるのです。先ほどの養老静江さんの100年前の津久井の話も、やはり同じことだと思います。高度経済成長期以前は、50年前も、100年前も、そして江戸時代でも、中野の風景はあまり変わってはいないということなのでしょう。


■「三太物語」の世界

 そして、まさに私の中野小学校時代とも重なるのですが、この津久井の原風景の最後の姿を伝えるのが、あの「三太物語」だったと思います。

 「三太物語」は、道志川の下流域、いまの青山や三ヶ木あたりを舞台にした子供たちの冒険物語です。三太や花子、留に定、そして花荻先生……、懐かしく思い出されるかたは、もう50歳以上でしょうか。物語の舞台になった小学校は、現在は中央小学校に統合されて廃校になってしまった青山小学校や、わが中野小学校の三ヶ木の分校だったはずです。私の通った中野小学校のころは、4年生になると三ヶ木の分校の生徒と一緒になりましたから、いまから考えてみれば、三ヶ木から通ってきた同級生は、三太や花子のモデルだったのかもしれません。

 1950年4月のNHK連続ラジオドラマで、全国的に有名になった「三太物語」ですが、著者の青木茂による原作は1946年に始まり、72年まで続いています。けれども、三太が遊びまわった津久井の風景のなかには、相模湖はあっても津久井湖はでてきません。25年以上も書き続けられた「三太物語」ですが、三太はいつも小学生でした。三太は成長できなかったのです。道志川を中心に、津久井の自然を舞台にした三太の物語は、高度経済成長期の社会では成り立たなかった物語、津久井の原風景のなかでしか存在しえなかった物語ともいえると思います。


■三太の史跡巡り

 いま津久井では、町の商店街のポイント・カードを「三太かーど」と名づけて、活発な活動をおこなっています。私自身も縁あって協力させていただき、そのパンフレットに次のような文章を書きました。

 休みの日に、『三太物語』を手にとって、道志川ぞいの「三太の史跡巡り」でもしてみませんか。……この散歩で、もしかすると、この半世紀の間になくしてしまった大事なものなんかが見えてくるかもしれません。

 『三太物語』は、30種類ぐらい出版された「三太の物語」の本のなかで、現在唯一購入可能な偕成社の本(本体価格1000円)のことです。津久井の原風景、それは安川さんのいわれる「里山」の世界でもありますが、そこでくりひろげられる三太の物語を読みながら、ぜひいまの景色と見比べてみてください。
 それから、一つ追加です。〈津久井の古地図展〉のカタログ『津久井の古地図』(役場で1000円で売っています)も、ぜひ一緒に持っていってください。江戸時代の古地図を見ながらの散歩は、なにも池波正太郎さんの江戸の下町の世界だけではありません。田舎でも十分楽しめるんです。

 最後に、「三太かーど」組合のHPには、「三太の遊び場」と題して、私がつくった「三太の史跡巡り案内」が入っています(http://www.santa-card.org/)。これも参考にしていただければ幸いです。

三太かーど協同組合
相模原市緑区中野1029
TEL:042-780-7383
FAX:042-780-7384
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